幻の名城 前橋城

16世紀に築城された幻の名城

かつて家康をして「関東の華」と言わしめた前橋城。しかしながら、現在その遺構はわずかしか残っていません。
戦国から江戸、明治へと様々に城主を変え、時代に翻弄された前橋城。今も私たちの足元に眠る幻の城の歴史を少しだけご紹介します。

関東の華 前橋

酒井重忠が家康より授かりし地 前橋
かつて家康をして「関東の華」と言わしめた前橋城。その歴史は15世紀末までさかのぼります。
前橋城の起源は諸説ありますが、厩橋城(のちの前橋城)の前身とされる石倉城は、長野氏の支城であり、天文3年の利根川氾濫によって流れてしまった石倉城の、無事であった三ノ丸を基にして長野賢忠(固山宗賢)によって再築された城が、厩橋城と呼ばれるようになったと言われています。(笠間明玄や太田道灌による築城という説も残っているそうです)
厩橋城は、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の関東進出の拠点となり、その後北条高広や、滝川一益、北条氏直など、様々な人物が城主となります。
江戸時代に入り、初代厩橋藩主であった平岩親吉が甲府藩へ移されると、徳川家の重心であった酒井重忠が入城することとなりました。この際、家康は重忠に、「なんじに関東の華をとらせる。」といったと伝えられています。
歴代酒井家の墓所 龍海院
歴代酒井家の墓所 龍海院

歴代酒井家の墓所 龍海院

「是」の字を握る夢に由来する前橋初代藩主の菩提寺

岡崎城主だった徳川家康の祖父・松平清康が創建した酒井家の墓所。「大珠山是字寺龍海院」の名は、「是」の字を握る夢に由来しています。ある時「是」の字を左手に握った夢を見た清康公は、竜渓院住職の模外惟俊大和尚にその意味を尋ねると、「この字は日下人に分けられ、これを握るということは、戦国の分裂の世が統一される吉兆。君公により実現しなくとも孫の代までに実現する」との答え。喜んだ清康公は、享禄三(1530)年、岡崎城下に模外禅師を開山とする満珠山是字寺龍海院を建立。徳川氏には既に大樹寺という菩提寺があったため、家老の酒井正親公に外護を命じ、以降は酒井氏の菩提寺になりました。 初代から15代までの酒井家歴代藩主の墓と、酒井家の分家・伊勢崎藩主の初代と6代の墓があります。

酒井家から松平家、そして廃城へ

暴れ川「利根川」に翻弄された前橋城
酒井重忠は城の大改修を行い近世城郭へと変貌させ、城には3層3階の天守も造営されました。 下馬将軍として知られる酒井忠清(さかい ただきよ)から忠挙(ただたか)にいたる、17世紀中頃から18世紀初頭、厩橋の地は「前橋」と名を改められ、城も「前橋城」と呼ばれるようになります。 そんな華々しい城の歴史とは裏腹に、前橋城や周辺一帯は暴れ川として知られる利根川によって、度重なる氾濫と洪水の浸食を受け続けていました。17世紀後半になると利根川の洪水により城の崩壊が進み、18世紀初頭には、本丸の移転を余儀なくされてしまいます。 18世紀には酒井氏が転封となり、親藩である松平朝矩(まつだいら とものり)が引き継ぎました。度重なる利根川による被害に、前橋城は修復を重ねますが、松平家の川越への転封を契機に、明和6年(1769年)に三重櫓の天守閣、大手門などが取り壊され、廃城となってしまいました。

再築された前橋城

廃城となって約100年、前橋城の再築と再びの取り壊し
横浜開港に伴う生糸貿易により活況を呈した前橋に、前橋城再築の案が持ち上がります。これを受けて、11代直克は幕府に対して3度にわたり「前橋城再築内願書」を提出。
当時江戸幕府は既存の城の増改築すらほとんど認められない中、万が一江戸が外国によって攻撃された時の避難路として利根川を利用でき、申し出ている前橋城を、江戸城に変わる要塞とする案が幕府内で浮上し、幕府がこれを許可したことで、廃城から100年の時を超えて、1863年に築城が許可され前橋城の再築が始まりました。
再築された前橋城は当時の日本の技術の粋を集めた要塞となり、坪数は旧前橋城とほぼ同等ながらも非常に近代的な造りで、建物が塀で囲まれ、その外側には土手やお堀がはりめぐらされ、土塁の要所要所に砲台が設置された強靭な城となりました。 ところが城の完成からわずか4年後、明治維新による廃藩置県で、前橋城は真っ先に取り壊しが決定し、莫大な費用をかけて作られた前橋城は、再び姿を消したのでした。
前橋藩最後の藩主"松平直克"
前橋藩最後の藩主

前橋藩最後の藩主"松平直克"

文久3年(1863 年)嘆願していた前橋城築城が許されて前橋城築城を開始しました。翌年の 10 月 10 日に政事総裁職に就任して幕政に参与。しかし元治元年(1864 年)6 月、横浜鎖港問題で将軍・徳川家茂らと対立して政事総裁職を罷免され、以後は幕政から退きました。
慶応 3 年(1867 年)、前橋城完成により、川越藩より前橋藩に移り、再築された前橋城としての最初で最後の藩主となります。明治 2 年(1869 年)6 月、版籍奉還により前橋藩知事に任じらましたが、8 月 17 日に家督を養子の松平直方に譲って隠居。明治 30 年(1897 年)に58歳でその生涯を終えました。

再び取り壊された城

明治維新後県庁として使われた本丸御殿
前橋城が取り壊されたとき、本丸御殿だけは取り壊しを免れました。この本丸御殿を昭和初期まで前橋県庁として、また府県統合により群馬県が成立した後は群馬県庁の庁舎として、老朽化で取り壊される昭和3年まで使用されていました。
現在はその本丸御殿の跡に建てられた旧庁舎「昭和庁舎」と、地上33階、地下4階の群馬県庁が置かれています。
二の丸の跡地には前橋市役所が、三の丸跡地には前橋地方裁判所が置かれ、堅牢な土塁の痕跡も、群馬県庁の周りで見ることができます。
前橋城絵図帳

前橋市の文化財保護課より市立図書館所蔵の古絵地図類をまとめた本「前橋城絵図帳」が発行されています。
前橋城が利根川の浸食で削られていく様子や、時代ごとの城普請、城下の用水増設など、近世の前橋を知ることができる一冊です。
購入は前橋市文化財保護課(027-280-6511)で。1冊1000円。
前橋城最新情報

令和3年2月、前橋城大手門の石垣跡が発見され、ニュースとなりました。
これは、現在進行中の本町一丁目の工事現場において、前橋城大手門の石垣が発見されたものです。 確認されたのは一部ですが、前橋城絵図による位置や、発見された石垣の大きさから、これまで確認されていなかった江戸前期酒井雅楽頭時代の前橋城大手門の石垣の一部である可能性が高いと考えられます。
現在、前橋市教育委員会にて確認調査を進めておりますが、石垣は地表下約1.5メートルから出土しており、確認調査終了後は、埋め戻して工事で壊れないよう現状保存を図ります。 このあたりは、旧町名では曲輪町という名であり、お城のお堀や長門門などが廃城によって埋め立てられたと言われていましたが、今回の発見により、絵図に示されていた幻の城の存在が確かである証が示されました。