その昔、履中天皇(5世紀前半に実在したと見られる)の御代、高野辺大将家成という公家がおりました。
ある時、無実の罪で、上野國勢多郡深栖(コウズケノクニセタグンフカヅ…現前橋市粕川町深津ともいわれる)という山里に流されてしまいますが、そこで、年月を過ごすうちに、大将と奥方の間に、若君一人、姫君三人が生まれました。
月日は経ち、成人した息子は母方の祖父を頼って、遠く離れた都へ上り仕官しておりました。三人の姫たちは深栖で両親と共に暮らしていたのですが、姫たち(淵名姫・赤城姫・伊香保姫)がそれぞれ十一歳、九歳、七歳の時に母君が亡くなってしまいます。父家成は、その年の秋に世間の習慣に従い後妻を迎え、新しい妻との間にも一人の娘が産まれます。
その後、大将は罪を許され都に戻ると、それぞれの乳母の元で成長する三人の娘たちに婿を選び知らせました。これに嫉妬した継母は、実弟の更科次郎兼光をそそのかして先妻の娘たちの殺害を計画するのです。
兼光はまず、姉姫である淵名姫を利根川の倍屋ヶ淵に沈めて殺してしまいます。
次女の赤城姫も追われ、赤城山に逃げ込み迷っていたところ、赤城の沼の龍神が現れ「この世は、命はかなく夢・幻のようであります。竜宮城という、素晴らしい処へと姫君を案内します。」と言って姫を助けてくれました。姫はその後、龍神を継いで、赤城大明神となります。
末の伊香保姫は、伊香保太夫の居城に護られなんとか生きながらえることができました。
事件を知った大将・家成は、慌てて戻ります。しかし時すでに遅く、淵名姫の亡くなった淵で神となった淵名姫と再会し、悲しみのあまりこの淵に入水してしまいます。 都で出世していた息子は、この知らせを聞き軍勢を率いて戻り、兼光を殺し、継母らを捕らえますが、仮にも一時は母であったという理由で、殺さずに、継母の出身地・信濃へ追放しました。信濃へ戻った継母は、甥を頼りますが、甥に捨てられ死んでしまいます。この、甥が叔母である継母を捨てた山が、姥捨山と言われています。
事件を収拾させた息子は、淵名姫の死んだ淵に淵名明神の社を立てます。その後、大沼の畔で、神となって一羽の鴨の羽に乗った妹、淵名姫・赤城姫と再会します。(この鴨が大沼に留まり、島となったのが、現在赤城神社のある小鳥ケ島)その後、大沼と小沼の畔に、神社を建て(赤城神社・小沼宮)、神々をお祀りしたそうです。 その後兄は都に戻り、伊香保太夫が国司の後見(代理職)を務めました。伊香保は領地が狭いため、伊香保姫は群馬郡内の自在丸という処所(現上野総社神社あたり)に住んでいたそうです。
この言い伝えがもとなのでしょうか、現在も赤城山大沼、小鳥ヶ島に建つ赤城神社は「女性の願いがかなう」とされ、たくさんの女性参拝者が訪れています。